みなさん、こんにちは。 米国駐在員の「たろす」です。
前回の記事「吃音の悩みと米国駐在。独り言が教えてくれた「話す楽しさ」」では、私が長年抱えている吃音(きつおん)について初めて告白しましたが、今回はその続きとして、「吃音と英語(外国語)」の不思議な関係についてお話しします。
あの後もPlaudに向かって独り言を録音していた最中に、ふとある事実に思い当たりました。それは、ここアメリカでの「普段の仕事や日常会話」のことです。
現場での気づき:吃音は英語だと症状が軽い?
私は普段、日本語を話すときは予期不安と戦っています。 「またどもるのではないか」と身構えてしまうのです。
しかし、ふと振り返ってみると、不思議なことに気がつきました。 職場で同僚と英語で話す時や、店員さんと話す時。 吃音は、英語(外国語)で話している時の方が、症状が軽い気がするのです。
ボイスレコーダーに向かって話しながら、この事実にハッとさせられました。 なぜ、慣れ親しんだ母国語である日本語の方が話しにくいのでしょうか。 逆に、吃音は英語のような不慣れな外国語の方が、なぜスムーズに出るのでしょうか。
自己分析した結果、一つの仮説が浮かび上がってきました。 それは、「過去の記憶(トラウマ)」の差ではないか、という点です。
吃音と英語、そして「無意識の記憶」
日本語(母国語)は、生まれてから何十年も話してきました。 その長い歴史の中には、失敗の記憶が山のように蓄積されています。 「言葉が詰まって恥をかいた」「変な顔をされた」といった記憶です。
母国語を話そうとした瞬間、無意識のうちにその記憶が呼び起こされます。 それが「また失敗するかも」という恐怖心になり、ブレーキをかけている気がするのです。
一方で、私が英語を本格的に使い始めたのはここ2〜3年前からです。 もちろん、駐在員として英語力の不足で苦労することは山ほどあります。 しかし、日本語に比べれば「どもって恥ずかしかった記憶」の蓄積は圧倒的に少ないのです。
だからこそ、外国語を話すときは無意識のブレーキがかからないのかもしれません。 結果として、吃音は英語を話す時の方が気にならず、発話のリズムがスムーズになるのかもしれません。
※あくまで個人の「思いつき」です
もちろん、これは医学的なエビデンスに基づいた話ではありません。 専門的な知識があるわけでもありません。 当事者である私がふと感じた、単なる「個人的な思いつき」に過ぎません。 ただ、当事者としての実感値としては、腑に落ちるものがありました。 この「記憶と恐怖の関係」は、無視できない要素だと感じています。
「独り言プロジェクト」を1年続けます
もし吃音の原因の一端が、単なる発話機能だけでなく、こうした「無意識や潜在意識」にあるのだとしたら。
この「誰にも評価されない独り言」を続けること。 それは、無意識にこびりついた恐怖心を上書きする、最高のリハビリになるはずです。
私はこの「ひとりごと録音プロジェクト」を続けることにしました。 まずは1年間やってみます。 この記録を続けることで、「吃音と英語(外国語)」に関するこの仮説が正しいのかを探っていきたいです。
1年後、私の内面や症状はどう変化しているのか。 AIと共に、その変化の過程もこのブログで記録していこうと思います。


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